トラウマ小説 -序章 これが入ってました-
2013.05.11 (Sat)
このボルトが身体の中に入っていたよ。でおなじみナオシです。だうも。
- - - - -
先週のGW、みんなわいわい楽しそうな中、わたしは8日ほど入院しておりました。
なんでかと言うと、去年の1月に大きな骨折をしてしまい、その際に入れたボルトを撤去するための手術が必要だったのです。
今回の怪我は、今まで生きてきた中で最大級に凹んだことでして『ま、いっか』(開き直り力)が異様に高レベルなわたしですら、陽気にブログに書けないほどいろいろな苦労がありました。
あれから1年が過ぎ、この度無事に手術を終えて、あとはひたすら運動!いいものを食べるべし!とほぼ完治宣言が出て、無事乗り越えられたことが嬉しくなり、記念にブログに記しておこうと思った次第。
全6話のトラウマ小説、綴ってゆきます。
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トラウマ小説 -第1話 2012年1月8日-
2013.05.11 (Sat)
忘れもしない2012年1月8日。とても寒い冬の朝でした。
2011年の12月25日、11年勤めたエセOLを辞めました。辞める勇気はなかったのに、気味の悪い事件に巻き込まれ、これは無理!とその後の準備もなく辞めたもので 『今後の人生どうなるんだべか。』と落ち着かない日々でした。
絵だけで生活してゆくということが厳しいなんてことは、長年やっている自分が一番よくわかっているのです。
年末年始は実家で楽しく過ごし、1月4日に横浜の家に戻りましたが、『これからフリーのアーティストとして頑張らねば!』と焦りの気持ちのまま過ごすこと数日。そんなとき突然愚かな悲劇が起こりました。
寝ぼけたまま、ロフトのあるベッドから作業部屋に降りるはしごで足を踏み外してしまい、背中から落ちてしてしまったのです。
【ドンッ】
鈍い音がしました。落ちた瞬間、『これはやばい。』と冷や汗が流れました。
通常テンパリまんのわたしですが、以外にも冷静なもので、『携帯はどこだろう。』とすぐに這いつくばって携帯を探しました。
全く見つからず、玄関に助けを呼びに行こうとするも段差がたくさんあり困難だったので、再び部屋に戻りひたすら携帯を探すことに専念。
このときは痛みよりも、『このまま誰にも気づかれず死んだらどうしよう。』と恐怖でしかありませんでした。今もたまに思い出すことがあり寒気がすることがあります。これは一生トラウマになるのだろう。
- - - - -
何分探しただろうか。
幸運なことに携帯を持って一緒に落ちたようで、遠くに落ちている携帯を見つけたときは本当に安心した。
急いで119番に電話して助けを求め、その後母に電話。
いつものテンションで『もしもーし。』と明るく話す母に、自分の状況を伝えるのがなんとも心苦しく、思い出すだけで申し訳なくなる。どんだけ心配させるんだと。
数分後に救急車の音が聞こえてタンカで運ばれる。
とんでもなく適当な部屋着であったが、いろんな恥がぶっ飛ぶほど助けて欲しかったので、隊員の方に保険証と財布と携帯と家の鍵だけバックに入れてもらいそのまま救急車へ乗り込む。
ドラマで見たような緊迫したシチュエーションはなく、『どこの病院にしようかねー』、『通院しやすいところがいいよね。』、『でも今個室しか空いてなくて、追加料金取られちゃいますけどどうします?』なんてそこらへんのカフェの会話のようなノリで質問されて、ちょっと苛立ちながら、『もう個室でもなんでもいいから病院へ連れてってください!』と言い放つ。
もう一体なんなんだ!夢であってくれ!と半泣きしている間に病院に到着。
2011年の12月25日、11年勤めたエセOLを辞めました。辞める勇気はなかったのに、気味の悪い事件に巻き込まれ、これは無理!とその後の準備もなく辞めたもので 『今後の人生どうなるんだべか。』と落ち着かない日々でした。
絵だけで生活してゆくということが厳しいなんてことは、長年やっている自分が一番よくわかっているのです。
年末年始は実家で楽しく過ごし、1月4日に横浜の家に戻りましたが、『これからフリーのアーティストとして頑張らねば!』と焦りの気持ちのまま過ごすこと数日。そんなとき突然愚かな悲劇が起こりました。
寝ぼけたまま、ロフトのあるベッドから作業部屋に降りるはしごで足を踏み外してしまい、背中から落ちてしてしまったのです。
【ドンッ】
鈍い音がしました。落ちた瞬間、『これはやばい。』と冷や汗が流れました。
通常テンパリまんのわたしですが、以外にも冷静なもので、『携帯はどこだろう。』とすぐに這いつくばって携帯を探しました。
全く見つからず、玄関に助けを呼びに行こうとするも段差がたくさんあり困難だったので、再び部屋に戻りひたすら携帯を探すことに専念。
このときは痛みよりも、『このまま誰にも気づかれず死んだらどうしよう。』と恐怖でしかありませんでした。今もたまに思い出すことがあり寒気がすることがあります。これは一生トラウマになるのだろう。
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何分探しただろうか。
幸運なことに携帯を持って一緒に落ちたようで、遠くに落ちている携帯を見つけたときは本当に安心した。
急いで119番に電話して助けを求め、その後母に電話。
いつものテンションで『もしもーし。』と明るく話す母に、自分の状況を伝えるのがなんとも心苦しく、思い出すだけで申し訳なくなる。どんだけ心配させるんだと。
数分後に救急車の音が聞こえてタンカで運ばれる。
とんでもなく適当な部屋着であったが、いろんな恥がぶっ飛ぶほど助けて欲しかったので、隊員の方に保険証と財布と携帯と家の鍵だけバックに入れてもらいそのまま救急車へ乗り込む。
ドラマで見たような緊迫したシチュエーションはなく、『どこの病院にしようかねー』、『通院しやすいところがいいよね。』、『でも今個室しか空いてなくて、追加料金取られちゃいますけどどうします?』なんてそこらへんのカフェの会話のようなノリで質問されて、ちょっと苛立ちながら、『もう個室でもなんでもいいから病院へ連れてってください!』と言い放つ。
もう一体なんなんだ!夢であってくれ!と半泣きしている間に病院に到着。
トラウマ小説 -第2話 絶望感-
2013.05.11 (Sat)
時間は昼間。外はむなしいほどの晴天。病院の救急センターへ到着し、応急処置を受ける。
『両足は動きますか?』と聞かれ『はい、大丈夫です。』と伝えるも、担当の先生がいないようで、はっきりとした診察が進まないまま、数日も過ぎた。
その間に、両親と姉が来てくれいろいろ話をした。
いいのか悪いのか、わたしは1月21日に新しい新居へ引越しをする予定であった。部屋を借りやすい社員のうちに新しい家に引っ越して、心気一転頑張ろう!と辞める前に新居を見つけていたのである。
4年も住んで引越しまであと数週間という時にこんなことってあるのだろうか。気持ちの焦りが引き起こした怪我なのだろうなと思った。
がしかし、骨折した場所が神経がたくさん通っている身体の中心の背骨ということもあり、母に『車椅子生活になるかもしれないし、こっちで一人暮らしはできるべか。』と言われた時、初めて怪我の重大さに気づいた。
痛みもほとんどなく、足が動くから大丈夫と思っていたのだが、先生も曖昧なことしか言わないし、『もしかして歩けなくなるのか?』と一気に恐怖が押し寄せ、絶望感を抱いた。
その夜、わたしは1人ぼっちの部屋で涙を流した。
- - - - -
夜が明け、不安なまま担当医の先生が診察に来る日をむかえた。
待ち遠しくもあったが、答えを聞くのが恐怖な日でもあった。今日で人生が大きく変わる。そう思った。
先生がさわやかに入ってくる。全力で緊張するわたしを目の前に先生が発した言葉は、
『ラッキーだったねぇ。』
の一言。
怪我の名前は【第二腰椎破裂骨折】。骨が砕けてしまう程の大怪我。
マンションの3~4階から落ちた時の衝撃らしい。この骨折をしてしまったら歩けなくなる確率はかなり高いとのことだったが、わたしの神経は丈夫だったようで、断裂することなくするっと逃げてくれたらしい。健康に生んでくれた両親に感謝するとともに、冬の過ごし方が、暖房派ではなく洋服をいっぱい着込む派だったことも幸いだったと思う。
『手術をすればすぐ通常の生活に戻れますよ。1ヶ月ぐらいかなぁ。』
先生の口からさらっと出たこの言葉を聞いて、全身から力が抜けていくのを感じ全力で安心した。
そして、『このまま横浜で生活したいから引越しの作業をお願いします。』と両親に懇願し、予定通り引越しすることに決めた。
どこまでも迷惑をかける娘だなぁ、とその夜もまた一人で泣いた。
『両足は動きますか?』と聞かれ『はい、大丈夫です。』と伝えるも、担当の先生がいないようで、はっきりとした診察が進まないまま、数日も過ぎた。
その間に、両親と姉が来てくれいろいろ話をした。
いいのか悪いのか、わたしは1月21日に新しい新居へ引越しをする予定であった。部屋を借りやすい社員のうちに新しい家に引っ越して、心気一転頑張ろう!と辞める前に新居を見つけていたのである。
4年も住んで引越しまであと数週間という時にこんなことってあるのだろうか。気持ちの焦りが引き起こした怪我なのだろうなと思った。
がしかし、骨折した場所が神経がたくさん通っている身体の中心の背骨ということもあり、母に『車椅子生活になるかもしれないし、こっちで一人暮らしはできるべか。』と言われた時、初めて怪我の重大さに気づいた。
痛みもほとんどなく、足が動くから大丈夫と思っていたのだが、先生も曖昧なことしか言わないし、『もしかして歩けなくなるのか?』と一気に恐怖が押し寄せ、絶望感を抱いた。
その夜、わたしは1人ぼっちの部屋で涙を流した。
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夜が明け、不安なまま担当医の先生が診察に来る日をむかえた。
待ち遠しくもあったが、答えを聞くのが恐怖な日でもあった。今日で人生が大きく変わる。そう思った。
先生がさわやかに入ってくる。全力で緊張するわたしを目の前に先生が発した言葉は、
『ラッキーだったねぇ。』
の一言。
怪我の名前は【第二腰椎破裂骨折】。骨が砕けてしまう程の大怪我。
マンションの3~4階から落ちた時の衝撃らしい。この骨折をしてしまったら歩けなくなる確率はかなり高いとのことだったが、わたしの神経は丈夫だったようで、断裂することなくするっと逃げてくれたらしい。健康に生んでくれた両親に感謝するとともに、冬の過ごし方が、暖房派ではなく洋服をいっぱい着込む派だったことも幸いだったと思う。
『手術をすればすぐ通常の生活に戻れますよ。1ヶ月ぐらいかなぁ。』
先生の口からさらっと出たこの言葉を聞いて、全身から力が抜けていくのを感じ全力で安心した。
そして、『このまま横浜で生活したいから引越しの作業をお願いします。』と両親に懇願し、予定通り引越しすることに決めた。
どこまでも迷惑をかける娘だなぁ、とその夜もまた一人で泣いた。
トラウマ小説 -第3話 続・絶望-
2013.05.11 (Sat)
少し気持ちは安心したものの、手術日の25日までは時間があり、2週間以上ベッドの上で生活した。
起き上がれない絶対安静のため、食事は横になったまま・寝返りも1人でうてないのでその都度ナースコール・トイレもオムツ、なんて生活。オムツでトイレが本当にキツイ。
本当に1日がただ過ぎるのを待つだけという日々を過ごした。
以前のせかせかした毎日とは対照的すぎて最初はじたばたしたが、25日を乗り越えれば自由だ!と気持ちを切り替え英語を勉強したりしていた。
個室ということで、仕事の人に状況説明の電話をできたり、友達と直接話をできることが何より助かった。友達にも『あの時全然元気そうだったよねぇ。』と言われる程であった。
そんな中いつのタイミングだったか忘れたが、母に『ちょっと楽観的すぎるぞ!』と言われたことがあった。心配している側としてそう言いたくなる気持ちもわかるけど、そのときは自分だけは自分の運命を信じてあげたいと思っていた。
会社のことや今回の怪我のことと、身も心もボロボロ。とはまさにこのことだろうな。とどん底にいる気持ちは相変わらず続いていたが、『絶対元気になって、また絵を描くんだ!』という強い気持ちだけが支えとなり、気持ちを上に引っ張ってくれていた。
この想いがなかったら、ここまで強く自分を保つことはできなかっただろうと思う。希望を持つことの大切さを学んだ。
- - - - -
そんなこんなでようやく2週間が経った。明日が手術ということで大学病院へ移動した。
姉に一緒に救急車に乗ってもらい付き添ってもらう。姉が近くにいてくれて本当に助かった。独り身の心細さを心底味わい、このままじゃいかんなぁ。と人生を見つめなおした。
そして手術日。
実家より再び両親が来てくれた。『頑張れよ!』という父のエールに親指をたてた。
この時の気持ちは、恐怖や不安というものはほとんどなく、『やっとこの日がきたぁー』という希望でしかなかった。そして、テレビで見るような手術台の上に乗せられ、『ちょっと眠くなるからねー』という言葉と同時に眠りに入った。
- - - - -
何時間経ったのだろうか。寒さで目が覚める。
もうろうとした意識の中で、父に『手術はうまくいったからよ。』と言われ喜ぶと同時に激しい痛みと、寒気に身体が震えた。手術は5時間だったろうか。思ったより骨が散らばっていたので大変だったとのこと。怖い。
そのまま2日間、特別治療室での絶対安静。この2日間が死ぬほどキツかった。
痛いは寝返りは打てないはで、痛め止めの注射を打ってもらわないと眠れない状況。本当に地獄。
どこまでわたしは苦しまねばならないのだろうか。
痛みをこらえながら、ひたすら時間が過ぎるのを待つしかなかった。
起き上がれない絶対安静のため、食事は横になったまま・寝返りも1人でうてないのでその都度ナースコール・トイレもオムツ、なんて生活。オムツでトイレが本当にキツイ。
本当に1日がただ過ぎるのを待つだけという日々を過ごした。
以前のせかせかした毎日とは対照的すぎて最初はじたばたしたが、25日を乗り越えれば自由だ!と気持ちを切り替え英語を勉強したりしていた。
個室ということで、仕事の人に状況説明の電話をできたり、友達と直接話をできることが何より助かった。友達にも『あの時全然元気そうだったよねぇ。』と言われる程であった。
そんな中いつのタイミングだったか忘れたが、母に『ちょっと楽観的すぎるぞ!』と言われたことがあった。心配している側としてそう言いたくなる気持ちもわかるけど、そのときは自分だけは自分の運命を信じてあげたいと思っていた。
会社のことや今回の怪我のことと、身も心もボロボロ。とはまさにこのことだろうな。とどん底にいる気持ちは相変わらず続いていたが、『絶対元気になって、また絵を描くんだ!』という強い気持ちだけが支えとなり、気持ちを上に引っ張ってくれていた。
この想いがなかったら、ここまで強く自分を保つことはできなかっただろうと思う。希望を持つことの大切さを学んだ。
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そんなこんなでようやく2週間が経った。明日が手術ということで大学病院へ移動した。
姉に一緒に救急車に乗ってもらい付き添ってもらう。姉が近くにいてくれて本当に助かった。独り身の心細さを心底味わい、このままじゃいかんなぁ。と人生を見つめなおした。
そして手術日。
実家より再び両親が来てくれた。『頑張れよ!』という父のエールに親指をたてた。
この時の気持ちは、恐怖や不安というものはほとんどなく、『やっとこの日がきたぁー』という希望でしかなかった。そして、テレビで見るような手術台の上に乗せられ、『ちょっと眠くなるからねー』という言葉と同時に眠りに入った。
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何時間経ったのだろうか。寒さで目が覚める。
もうろうとした意識の中で、父に『手術はうまくいったからよ。』と言われ喜ぶと同時に激しい痛みと、寒気に身体が震えた。手術は5時間だったろうか。思ったより骨が散らばっていたので大変だったとのこと。怖い。
そのまま2日間、特別治療室での絶対安静。この2日間が死ぬほどキツかった。
痛いは寝返りは打てないはで、痛め止めの注射を打ってもらわないと眠れない状況。本当に地獄。
どこまでわたしは苦しまねばならないのだろうか。
痛みをこらえながら、ひたすら時間が過ぎるのを待つしかなかった。
トラウマ小説 -第4話 長い戦い-
2013.05.11 (Sat)
手術後の3日目に少し元気になり、部屋が移動になった。
今度は個室ではなく6人の大部屋で、一番ひどい怪我ということもあり、オムツ生活を筆頭にいろいろ精神的にキツかった。カーテンを閉め切って、ただ一人で自分の時間を過ごした。
手術から1週間後あたり、ようやく傷口が痛まなくなってきたなーというあたりにコルセットが到着した。いよいよ今日から起き上がりますよ!と言われ、起こしてもらうと目の前がぐらぐらして、激しい貧血におそわれた。ただ座るだけなのにすごい高さを感じて怖くてしょうがない。
そんなわたしにさらに悲しい現実が目の前に。
寝たきり生活が続きすぎて筋力が低下し、歩くことができなくなっていたのである。
どこまで続くのか、わたしの絶望よ。
- - - - -
人間というものは、ずーっと寝てばかりいると筋力が弱って歩けなくなるということを身をもって実感する生活が始まった。
手術が無事終わったかと思えば次の難関。車椅子でリハビリ生活のスタート。
その間に両親がわたしの引越しをしてくれた。
荷造りも全くしていなかったので、相当大変だったと思われる。本当に感謝している。はしごのある家にはもう戻りたくなかったし、退院して病み上がりの身体ですぐに新しい家探しというわけにもいかなかっただろうから、自分ナイスと思う。
そんなことを思いつつも、全く歩けない自分に焦りを感じずにはいられない日々。
しかし、リハビリの先生が同い年の優しく楽しい人で、先生に会うのが1日の一大イベントになっていた。もうそれぐらいしか楽しみがなかった。
とにかく少しでもよくなるようにと、部屋で積極的に自主練をした。
そのおかげもあってか車椅子から歩行器、歩行器から手すりを使って階段を上り下り、とリハビリもスムーズに進み、退院の1週間前には、病院にノートパソコンを持ち込んでホームページの更新作業をしていた。好きなことをできる。それだけで幸せだった。
そんなこんなでリハビリから2週間後に、ようやく無事退院することが出来た。
約40日間の長い戦いであった。
今度は個室ではなく6人の大部屋で、一番ひどい怪我ということもあり、オムツ生活を筆頭にいろいろ精神的にキツかった。カーテンを閉め切って、ただ一人で自分の時間を過ごした。
手術から1週間後あたり、ようやく傷口が痛まなくなってきたなーというあたりにコルセットが到着した。いよいよ今日から起き上がりますよ!と言われ、起こしてもらうと目の前がぐらぐらして、激しい貧血におそわれた。ただ座るだけなのにすごい高さを感じて怖くてしょうがない。
そんなわたしにさらに悲しい現実が目の前に。
寝たきり生活が続きすぎて筋力が低下し、歩くことができなくなっていたのである。
どこまで続くのか、わたしの絶望よ。
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人間というものは、ずーっと寝てばかりいると筋力が弱って歩けなくなるということを身をもって実感する生活が始まった。
手術が無事終わったかと思えば次の難関。車椅子でリハビリ生活のスタート。
その間に両親がわたしの引越しをしてくれた。
荷造りも全くしていなかったので、相当大変だったと思われる。本当に感謝している。はしごのある家にはもう戻りたくなかったし、退院して病み上がりの身体ですぐに新しい家探しというわけにもいかなかっただろうから、自分ナイスと思う。
そんなことを思いつつも、全く歩けない自分に焦りを感じずにはいられない日々。
しかし、リハビリの先生が同い年の優しく楽しい人で、先生に会うのが1日の一大イベントになっていた。もうそれぐらいしか楽しみがなかった。
とにかく少しでもよくなるようにと、部屋で積極的に自主練をした。
そのおかげもあってか車椅子から歩行器、歩行器から手すりを使って階段を上り下り、とリハビリもスムーズに進み、退院の1週間前には、病院にノートパソコンを持ち込んでホームページの更新作業をしていた。好きなことをできる。それだけで幸せだった。
そんなこんなでリハビリから2週間後に、ようやく無事退院することが出来た。
約40日間の長い戦いであった。
トラウマ小説 -第5話 この先何があっても-
2013.05.11 (Sat)
病院を出た瞬間、日常に戻っただけなのに、すべてがまぶしくてしょうがなかった。
電車で移動することもそうだし、窓から見える景色にいちいち感動した。
しかし電車を降りるとき、手すりを使わないと立ち上がれないことや、トイレに座ったとき何かにつかまらないと立ち上がれなかったりと完全な日常生活には戻れていないことを実感し、少し凹んだ。
そんなこんなで日常生活もなんとかできる状況になると母が岩手に戻っていった。つきっきりで看病してくれて見送るときも感謝と申し訳なさで泣けてきた。
その後、1人で外出するのは多少不安があったが、展示をしている品川ecuteにどうしても行きたくて、1人で向かった。
階段でまた転ばないだろうか。電車のイスに座って無事立ち上がれるのだろうか。と健康な今の自分では驚くような心配ではあるが、不安がいっぱいあった。
その展示は入院中に母やくぅさん、GIANT MANGOのお二人のサポートのおかげもあって参加できた展示であった。
期間も最終日近くというあたりに行ったのだが、自分の商品が残り少なくなっており、『ナオシさんのグッズ、たくさん売れてますよ!』とお店の方に聞いたとき、『あぁ、やっぱり絵を頑張ろう。』と不安だらけの日々に希望の光が差し込んできたような想いであった。
- - - - -
それからコルセット生活を半年。
お風呂では介護イスに座りながらシャワー。体をひねらないようにと注意を心がけた。
徐々に慣れてきて、コルセットをつけながら野外フェスに行くまでになった。(ホントはダメっぽかったが、我慢できなかった。)そうしてなんとか通常生活に戻り、去年の夏を目前にコルセットを外した。
怪我をしていなかったら2012年の4月にロサンゼルスに3ヶ月行って、帰ってきたらそのまま就職しようと思っていた。
だけど、コルセットが外れるのを待ち、学校の都合で渡米が延期延期となり、今年の1月ようやくLAへ行って来て、1年以上、全力で絵活動に没頭できる時間を持てたことが本当に幸せで、無謀ながらこの生活を続けたい!という願望を持ってしまった。
小心者で保守的なわたしが、こんな無謀な気持ちを持つことになるとは思わず。
それは全く何もできなかった日々の反動だろうが、【本当にいつ何があるかわからないから動けるときに動くしかない】というありがちな言葉を身を持って実感したからであるということは言うまでもない。
こんなにやりたいことがあるなら、『もうやりきった!』というところまで一度挑戦してもいいのではないだろうか。
実際、動いた分だけの成果を感じることや、たくさんの人のおかげで『もしかしたらいけるんでは?』という薄い希望も少しづつ持てるようになってきた。
自分のマヌケで起きた大怪我で、人生観が180度変わってしまった。
いいのか悪いのかさっぱりわからなけれど、この先何があっても後悔はしないだろう。
そう思った。
電車で移動することもそうだし、窓から見える景色にいちいち感動した。
しかし電車を降りるとき、手すりを使わないと立ち上がれないことや、トイレに座ったとき何かにつかまらないと立ち上がれなかったりと完全な日常生活には戻れていないことを実感し、少し凹んだ。
そんなこんなで日常生活もなんとかできる状況になると母が岩手に戻っていった。つきっきりで看病してくれて見送るときも感謝と申し訳なさで泣けてきた。
その後、1人で外出するのは多少不安があったが、展示をしている品川ecuteにどうしても行きたくて、1人で向かった。
階段でまた転ばないだろうか。電車のイスに座って無事立ち上がれるのだろうか。と健康な今の自分では驚くような心配ではあるが、不安がいっぱいあった。
その展示は入院中に母やくぅさん、GIANT MANGOのお二人のサポートのおかげもあって参加できた展示であった。
期間も最終日近くというあたりに行ったのだが、自分の商品が残り少なくなっており、『ナオシさんのグッズ、たくさん売れてますよ!』とお店の方に聞いたとき、『あぁ、やっぱり絵を頑張ろう。』と不安だらけの日々に希望の光が差し込んできたような想いであった。
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それからコルセット生活を半年。
お風呂では介護イスに座りながらシャワー。体をひねらないようにと注意を心がけた。
徐々に慣れてきて、コルセットをつけながら野外フェスに行くまでになった。(ホントはダメっぽかったが、我慢できなかった。)そうしてなんとか通常生活に戻り、去年の夏を目前にコルセットを外した。
怪我をしていなかったら2012年の4月にロサンゼルスに3ヶ月行って、帰ってきたらそのまま就職しようと思っていた。
だけど、コルセットが外れるのを待ち、学校の都合で渡米が延期延期となり、今年の1月ようやくLAへ行って来て、1年以上、全力で絵活動に没頭できる時間を持てたことが本当に幸せで、無謀ながらこの生活を続けたい!という願望を持ってしまった。
小心者で保守的なわたしが、こんな無謀な気持ちを持つことになるとは思わず。
それは全く何もできなかった日々の反動だろうが、【本当にいつ何があるかわからないから動けるときに動くしかない】というありがちな言葉を身を持って実感したからであるということは言うまでもない。
こんなにやりたいことがあるなら、『もうやりきった!』というところまで一度挑戦してもいいのではないだろうか。
実際、動いた分だけの成果を感じることや、たくさんの人のおかげで『もしかしたらいけるんでは?』という薄い希望も少しづつ持てるようになってきた。
自分のマヌケで起きた大怪我で、人生観が180度変わってしまった。
いいのか悪いのかさっぱりわからなけれど、この先何があっても後悔はしないだろう。
そう思った。
トラウマ小説 -第6話 復活-
2013.05.11 (Sat)
そんなこんなで今年の1月から3月までアメリカで心底やりたいことをやってきて自由に生きてきたが、帰国した数週間後の2013年4月29日、再びボルト外しで入院した。自由から再び不自由の世界へ。
手術前に、ボルトは1年から1年半後に撤去した方がいいという話を先生から聞いていた。それから何をするにも『1年後はまた手術かぁ。』という憂鬱な気持ちとともに過ごしてきた。
病院へ行くと4人部屋に案内され、うち3人が明日手術だということがわかり、なんだか心強かった。
- - - - -
4月30日。手術の日は、順番に部屋から人が移動していった。
わたしは手術のトリで、一番大変な手術なんだろうなーと思った。母もまた今回も来てくれ見守ってくれた。
前回の経験もあり、術後の痛みが恐怖ではあったが、じたばたしてもしょうがない。と覚悟を決めて手術室へ入った。また全身麻酔の眠気に誘われ『眠気にさからっちゃだめだよ~』と言われたのを最後に再び眠りについた。
- - - - -
1時間と言われていた手術だったが、2時間半かかったようだった。
目が覚めたときはジンジン痛んだが、前回の痛みに比べるとわりと平気で痛み止めを飲まずにこらえた。
数日経つと痛みも柔らぎ、お部屋の人と談笑する日々であった。
前回は怪我の程度が重く、落ち込み気味だったこともありカーテンを閉め切って孤独に過ごしたが、今回はさまざまな年齢の方々の体験談が面白く、毎日話をして過ごした。
母に『ロサンゼルスに行って変わったんだべか。』と言われそれも少しはあるかもしれんが、同じ病室の人たちがアメリカや上海に住んでいたといういろんなことを経験された方々だったから、楽しかったのだと思う。お父様が画家だったという方のお話も大変興味深く、他にも共通点があったり偶然すぎて驚き、『修学旅行みたいね~』とわいわい話すほどであった。
みんなお部屋を移動していき、最後は2人になったがさらにじっくりいろんな話をした。展示が近くて絵を描かないといけない状況であったが、話をすることの方が重要に思えて夢中になってあれこれいろんな話をした。
↑ペンタブまで持ち込み
退院の日には、みなさんにポストカードをプレゼントした。出会えて良かった、と思った。
病院を出る時、『今回の入院は楽しかったなぁ!』と言うと、母はあきれた顔で笑った。
こうしてわたしの入院生活は無事に終わった。
手術前に、ボルトは1年から1年半後に撤去した方がいいという話を先生から聞いていた。それから何をするにも『1年後はまた手術かぁ。』という憂鬱な気持ちとともに過ごしてきた。
病院へ行くと4人部屋に案内され、うち3人が明日手術だということがわかり、なんだか心強かった。
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4月30日。手術の日は、順番に部屋から人が移動していった。
わたしは手術のトリで、一番大変な手術なんだろうなーと思った。母もまた今回も来てくれ見守ってくれた。
前回の経験もあり、術後の痛みが恐怖ではあったが、じたばたしてもしょうがない。と覚悟を決めて手術室へ入った。また全身麻酔の眠気に誘われ『眠気にさからっちゃだめだよ~』と言われたのを最後に再び眠りについた。
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1時間と言われていた手術だったが、2時間半かかったようだった。
目が覚めたときはジンジン痛んだが、前回の痛みに比べるとわりと平気で痛み止めを飲まずにこらえた。
数日経つと痛みも柔らぎ、お部屋の人と談笑する日々であった。
前回は怪我の程度が重く、落ち込み気味だったこともありカーテンを閉め切って孤独に過ごしたが、今回はさまざまな年齢の方々の体験談が面白く、毎日話をして過ごした。
母に『ロサンゼルスに行って変わったんだべか。』と言われそれも少しはあるかもしれんが、同じ病室の人たちがアメリカや上海に住んでいたといういろんなことを経験された方々だったから、楽しかったのだと思う。お父様が画家だったという方のお話も大変興味深く、他にも共通点があったり偶然すぎて驚き、『修学旅行みたいね~』とわいわい話すほどであった。
みんなお部屋を移動していき、最後は2人になったがさらにじっくりいろんな話をした。展示が近くて絵を描かないといけない状況であったが、話をすることの方が重要に思えて夢中になってあれこれいろんな話をした。
↑ペンタブまで持ち込み
退院の日には、みなさんにポストカードをプレゼントした。出会えて良かった、と思った。
病院を出る時、『今回の入院は楽しかったなぁ!』と言うと、母はあきれた顔で笑った。
こうしてわたしの入院生活は無事に終わった。
トラウマ小説 -編集後記 世界一の仕事-
2013.05.11 (Sat)
と、そんなわけで5月6日に退院し、今日に至ります。
いやー、長かった。すべて書くのに6時間もかかってしまい、夢中すぎてSkype英会話の時間をすっぽかしてしまった。汗
こないだある人に『ナオシのブログはけっこう赤裸々だよね。』と言われたことがあった。
自分の日々の記録のために書いているし、本当に書きたくないことは書いてないので(今回の怪我のように)、『え、そう?』と思ったのですが、結局書きたくなるってことはやはり赤裸々人間なのかもなぁ。と思ったり。
と言っても、SNS(FBやツイッター)上ではなくこのブログ限定なのですがね。
とりあえず、このドジでマヌケな難関を無事クリアできたことが何よりの喜びであります。厳密に言うと、7月のレントゲンで問題がなかったら完全完治!ということであとひとふんばりではあるのですが、家族をはじめ、入院中にエールをくだすったみなさまには心底感謝であります。
何人かの方に今の体調を心配していただきましたが、家から駅まで階段200段を往復しておりますし、ライブにも行く程でありますのでね。このように心配をかけぬよう、復活した今のタイミングでブログを書いた次第ですので、どうぞご心配なさらずに!
つかお医者さんってホントすごい職業ね。世界一素晴らしい仕事だと思う。
健康万歳!はしごや階段にはみんな要注意ですよ!!!
↑さよなら、病室!二度と行くまい!
おしまい。
いやー、長かった。すべて書くのに6時間もかかってしまい、夢中すぎてSkype英会話の時間をすっぽかしてしまった。汗
こないだある人に『ナオシのブログはけっこう赤裸々だよね。』と言われたことがあった。
自分の日々の記録のために書いているし、本当に書きたくないことは書いてないので(今回の怪我のように)、『え、そう?』と思ったのですが、結局書きたくなるってことはやはり赤裸々人間なのかもなぁ。と思ったり。
と言っても、SNS(FBやツイッター)上ではなくこのブログ限定なのですがね。
とりあえず、このドジでマヌケな難関を無事クリアできたことが何よりの喜びであります。厳密に言うと、7月のレントゲンで問題がなかったら完全完治!ということであとひとふんばりではあるのですが、家族をはじめ、入院中にエールをくだすったみなさまには心底感謝であります。
何人かの方に今の体調を心配していただきましたが、家から駅まで階段200段を往復しておりますし、ライブにも行く程でありますのでね。このように心配をかけぬよう、復活した今のタイミングでブログを書いた次第ですので、どうぞご心配なさらずに!
つかお医者さんってホントすごい職業ね。世界一素晴らしい仕事だと思う。
健康万歳!はしごや階段にはみんな要注意ですよ!!!
↑さよなら、病室!二度と行くまい!
おしまい。